旅の定義ってなに?

ちょっと前に、とある徒歩旅人のツイートが炎上した。

「歩いて日本一周している僕から見れば、バイク旅人なんかがやっているのは旅じゃなくて『ドライブ』だ」

要約すれば、こんな内容である。

これを受けて圧倒的多数派であるバイク旅人たちが、一斉にこのツイートを批判したのだった。


僕が初めて一人旅に出たとき、(東京から)金沢への3泊4日の小旅行だったが、あれはまさに旅だった。

出発前には不安と期待が胸に渦巻いて、緊張もしたし、ワクワクもしたものだった。

だが今では、まるで近所のコンビニに行くがごとく、北海道までバイクを走らせている。

これを果たして旅と呼べるのか?

僕は今となっては、旅人を自称するのが恥ずかしい。

「旅」に対して申し訳ないとさえ思う。


旅と旅行の明確な違いは無いが、少なくとも「危険な旅行」というものは存在しないと思う。

同じように、「安全な旅」もまた無いだろう。

昔は

・何かがあるところへ行って、それを楽しむのが旅行

・何もないところへ行って、それでも何かを見つけてくるのが旅

だと決め付けていた。

これもあながち間違いではない。

だがこれに加えて、旅には緊張や危険、未知など、いくつかの不安要素が無ければ成り立たないと感じるようになった。

であれば、いま僕がやっていることは旅ではない。

旅行だ。


ある時、バイク日本一周者たちの間で「四輪で日本一周は楽」「キャンピングカーで日本一周してる奴は余裕すぎ」とかいう話になったことがある。

だがこれらの発言は、前述の「バイク乗りがやってるのはただのドライブ」という言葉の相似形でしかなかった。

バイクで移動するのに比べたら、四輪は確かに楽だし、安全だ。

とはいえ、四輪の日本一周者が、不安を全く感じないわけではないだろう。

初めてのことなら、四輪だろうがキャンピングカーだろうが、電車であっても不安を感じるに違いない。

しかし我々はその個人差を無視して、誰もが同じように、こう考えていたのだ。

「自分よりも楽している奴らを、旅人とは認めない」


旅だからといって、必ずしも苦しまねばならない、というのはいささか過言かもしれない。

しかし旅人ならば、多かれ少なかれ、旅の中で不安や緊張にさいなまれることがあるに違いない。

また、多少の危険を冒してでも、やりたいことを実行してきたはずだ。

であれば、旅の定義というものは、実に掴みどころのない流動的なものではあるが、

人それぞれが感じている「不安」の中にこそ見出すことが出来るものなのではなかろうか。


恐れる気持ちがあっても、それを実行したくてたまらない。

そういうことが誰にでもある。

そんな時、人は「実行する人」と「実行しない人」の二種類に分かれる。

この二種類のうちの「実行する人」こそが旅人となり、挑戦者となる。

世の中には「実行しない人」の方が圧倒的に多いのだから、挑戦者になれるのならば、それは誇っていいことだ。

だが、一度きりの挑戦では、本当の挑戦者にはなれない。

本物はこう言う。

「挑み続けろ」

旅も同じだった。

一度訪れた場所は、未知の場所ではなくなり、既知の場所となり、不安も恐怖も感じなくなる。

未知の場所へと足を踏み入れ続けることこそが、旅人としての本分だったのだ。

旅のそういう定義が分かった今、旅人として、次には世界を舞台として旅するのか、と自分に問わねばなるまい。

そして、今のところの自分の答えは、旅ではない他のことで、新しい挑戦をして恐怖を感じたい、というものだった。

少なくとも僕にとっての「旅人」の称号は、少しの間、お預けとなるのかもしれない。


旅に、手段は関係ない。

何を使おうが、不安や恐怖が伴うなら、それは旅だ。

今の自分に出来ないかもしれないことをし続けるなら、それは旅だ。

挑むのではない。

挑み続けよう。

「人生は、成功してアガリでもなければ、失敗して終わりでもない。肝心なのは、続ける勇気。」ウィンストン・チャーチル(元英国首相)

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