「病気・障害」と「個性」の違いってなんですか?

先日ある友人が、人から勧められたこともあって、心療内科に行った。

彼は以前から、人と馴染めなかったり、仕事が上手くいかないことで悩んでいた。

結果として、自閉症やADHDなどと診断を下された。

こんな話をするのは、僕が彼を好いているからだ。

一緒に話しているととても楽しい。

隣に座って過ごした時、彼がまさかそのような疾患を持つなどとは考える余地もなかった。

僕にとって、彼は「至って普通」と見えた。

…百歩譲って、少数派ではあった。

彼は大変な読書家であるから、みなと談笑する暇も惜しんで書物に耽っていたし、語り口もユニークで興味深いものがある。

あまり豊かな表情を示さずに何でも淡々と喋ったりするのが、僕の笑いを強く誘った。

さっきの「至って普通」が過言だったにしろ、「個性的で普通に面白い人」という認識だったことは間違いない。

それまで全く健康に暮らしていた男が、持病の偏頭痛が久しぶりに出たというので病院へ行ったついでに、一通りの検査を行うことにした。

すると、頭は脳卒中の危険性から胸の動脈瘤、足の動脈硬化に至るまで指摘され、血圧とコレステロール値に関してこってりと説教された挙句に入院を強く勧められた。

男が仕方なしに入院して病室で退屈な毎日を過ごすようになると、たちまち症状が気になりだし、そのうちに卒中で死んでしまった。

医者は何かと病気やその可能性を指摘したがる。

それを何も「不安商法」などと人聞きの悪い言葉に置き換えて、営業妨害じみた駄文を展開するつもりはない。

代わりにそれを医者の「職業病」とでも喩えるとして、これは医学の知識を持つ以上はやむを得ないことだと擁護さえ出来る。

無知で、バカで、非常識な方が上手くいく。で示した通り、知識は、繋がる。

素人目に何とも見えぬことでも、医者にとっては、いずれかの疾病の知識に当てはまり、結びつくものもあろう。

博識さゆえに、ぱっと見て何でもないようなことが、立派にひとつの病気として見えてしまうのも無理はない。

ただ現実では、あらゆる特異な形状や症状、果ては一時的な状態にまで手を伸ばして、多種多様の病名をつけてしまう。

これでは医学が進歩すれば進歩するほど新たな病気が増え、より豊富な知識を持つ医者ほど、病人を多く生み出すことになる。

これについては少なくとも、未来に「全員病人」という結論が出ないことを祈るしかない。

「個性」と「病気」の境界には深い霧が立ち込めて、まるで判然としない。

普通に歩いていたつもりが、ある日突然、一人の医者の独断で病人のレッテルを貼られるかもしれない。

これは他人事でなく、実に没個性的な筆者でさえ、数種の病院巡りを行えばいくつかの精神疾患の名称を聞くことが出来るかもしれない。

一般的には、個性とは「固体特有の性質」であり「大多数の他人とは明らかに異なる部分」と定義できるから、「普通とは違う状態・形状」にそれぞれ病名を与えていけば必然、全ての個性が病気に変わる。

この世から個性的な人は消え去り、後には病人と障碍者だけが残ることになる。

病名が付いてこそ、明確な診断を可能にし、正確な対処法を見出すことの出来るケースも多い。

これによって患者を以前の悩みから解放できるなら、それに越したことはない。

仮に、病名が分かってなお適切な処置を施せない場合でも、本人が「自分はこういう病に侵されているのか」と敵を認知できれば、すっきりする部分もあるかもしれない。

見えない敵ほど不気味で怖いものはないし、「分かる」ことは、人を強くするものだ。

であれば、自分の特異で悩ましい性質や状態が、病気・障害であると判明するのもまたより良いことかもしれない。

だがそれは、本人が分かっていさえすれば、それでよいことだ。

周囲の者がとやかく言ったり、首を突っ込んだりするようなことではない。

本人にとってそれが病気であったとして、友人知人までもが、それを病気と認識する必要が一体どこにあろう。

そんなことがあって、彼は相変わらず個性的で、僕にとって良き友人である。

今年の夏にでも、また彼に会えることを密かに期待しているのは、ここだけの話だ。

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