人はなぜ続けられないのか?続けるために、遊び続けよ。

「何事も続けられない」と言って悩む人がいる。

「続けられない」のは、おかしなことではない。

そもそも、人は、過去に始めた全ての物事を続けていたら、生きてゆけない。

我々は小学生になった時、国語・算数・理科・社会・音楽・スポーツ、現在では英語さえも始めてしまう。

多芸は無芸という古い言葉がある。

何もかもを続けていたら、何もかも中途半端の無能が出来上がる。

そのために、人は、多くのことを断念せねばならない。

「物事を続けない」というのは、非常に合理的な選択肢であると考えてよい。

人生の半分は「何をやるか」で決まるが、もう半分は「何をやめるか」で決まるのだ。

僕がこのブログを書き続けて2年ほどになるが、ある友人は「ブログを書こうと思ったけど3日でやめた」と言った。

僕が最近始めたことに毛筆があって、これは間もなく7ヶ月になろうとしている。

それで先日ド素人初心者が毛筆・書道を終始独学で勉強してみた。【六ヶ月目】このような記事を書いたのだった。

続けることに焦点を当てて考えると、物事を続けるうえで大切なのはまず第一に想像力である。

忍耐力などは二の次だ。

僕は新しい物事を始める時、必ず年単位で考える。

半年前に毛筆を始めた時、「とりあえず一年やってみる。話はそれからだ」と考えた。

一年間毎日練習してみて、それでも全く上達しなければ諦めた方がよかろう、よっぽど才能が欠けているに違いない。

しかし現実にそんなことは、まず起こらない。

一つの物事を一年間毎日練習し続けたら、どんな難しいことでも、どんな人間でも、必ず上達する。

これは決して想像に難くない、当たり前の出来事ではなかろうか。

僕は、一年後に筆が上達している自分を、容易に想像することができた。

一年後に生きる「理想の自分」のためならば、毎日辛くても、続けることは全くやぶさかでない。

逆に、この「理想の自分」が想像出来ないと、何事も続けるのは難しかろう。

努力とは未来の自分に対する奉仕であるから、ご褒美となる「未来の理想形な自分」を思い描く想像力が、努力を続けるうえで最も大切になる。

僕が続けられるのにはもう一つ理由がある。

好きなことしかやっていないからだ。

人は、嫌いなことを続けられない。

僕にとって、文章を書くことも筆を振るうことも、ピアノを弾いたり紅茶を飲んだりするのも、全ては遊びである。

やってて楽しい。

だから続く。

人は、遊び続けておればよいのだ。

しかし世の人々は決して遊び続けない。

遊んでばかりいると親や先生に「勉強しろ」と叱られるからだ。

ただ本当に勉強すべきは、算数でも社会でもない。

自分の好きなことこそ、勉強するに値するものと言える。

人は、好きなことこそ学び続けられるから、最終的には好きなことでお金を稼いだ方が明らかに効率が良い。

夢みたいに浮ついた話ではない、むしろこれは極めて現実的な話である。

僕の毛筆の師匠にあたる人物がいて、彼は旅しながら筆を振るって路上販売することでお金を稼いでいる。

また、僕自身は昔から文章を書くのが好きだったからこのようにブログを書いているが、このブログは実際に黒字である。

「なにでお金を稼ぐか?」よりも、「自分の好きなことを如何にしてお金に変えるか?」を考えると生産的に生きられる。

そのためにも「続けろ!」ではなく、「遊び続けろ!」と言いたい。

何事も、根性論に逃げてはいけない。

日本人は根性や忍耐力に逃げる癖がある。

根性の一言で一蹴すれば、頭を使わなくて済むし、工夫する必要もないから楽なんだろう。

しかし「根性だ」と言っているうちは何事も続かない。

続けられる人は必ず、自分は何なら続けられるのか、どうやったら続けられるのか、ということに思慮深くなる。

そして「好きなことなら続けられる」と気付くし、続けるための工夫もする。

前述の例で言えば、未来の自分を想像するのは一つの工夫だ。

頑張った自分にご褒美を用意するのも、古風だがシンプルで良い作戦だ。

一緒に頑張る仲間を作るのも悪くない。

切磋琢磨という言葉もある。

単に根性が足りない、などと考えて「何事も続かない」と嘆いても埒が明かない。

「根性だ!忍耐だ!」では続かないことを理解して、続けるための策を講じることが最優先と認識しよう。

続けるのではない。

遊び続けるのだ。

これこそ、物事が長続きするコツと言えよう。

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