「働くことへの憧れ」滑川温泉福島屋と飛び込み居候

昔見た作品で、高校生の主人公が突然旅館で働くことになる、というものがあった。

実はこれに大変憧れていた。

だが今時、映像作品に出るような個人経営の淑ましく美しい旅館などそうあるはずもない。

そう思っていた矢先、福島県境にほど近い米沢の山間の秘境で、幽寂閑雅という趣の旅館に立ち寄ることとなった。

秘湯、滑川温泉「福島屋旅館」と飛び込み居候

最初、一泊仮寝のつもりで立ち寄った。

しかしこの旅館でなら、昔からの憧れを実現できるかもしれない。

まずは、この幽邃なる風情を見てもらいたい。

創業255年、米沢の秘境に一軒ぽつんと佇む老舗旅館「福島屋」

物は試しだ。

断られてもいい、無給の居候さえ申し出て、なんとしてもこの旅館で働いてやろうと考えた。

夜、番頭の暇を見計らって、ここに仕事はありますかと尋ねた。

番頭は「ああ、ここは年中人手不足で。興味があれば、是非…」と言ったので、そうですか、考えておきますとだけ返事をして部屋に引っ込んだが、内心占めたと思った。

翌朝の勘定の時、番頭に「昨日の話ですが」と言って話題を持ち出して、少々使われることに決めた。

最短で一週間と言うので、是非一週間お世話になりたいと願い出た。

旅館の朝は早い。

おれは5時前に起きて、玄関の掃除を始めた。

その次は廊下の掃除だ。

こうして輝かしい廊下が保たれる。

次第に客が起き出してくるので、朝食の支度を整える。

朝晩共に、素朴且つ洗練された和食の膳である。

客の無い昼間は、ひたすら掃除に走る。

夕方以降は専ら、客をもてなさなければならない。

このように書くとまるで一日中慌ただしいようだが、これで本当に慌ただしいから参った。

だがこの生活は幸せそのものだった。

おれはどんなに忙しくても、楽しかった。

風情ある旅館で働いて寝食し、朝晩と良質の温泉に浸かるなど幸せに決まっている。

しかも旅館の者達は新参のおれに優しかった。

館主は尤もらしい口髭を蓄えた風格ある人物で、最初、無口で気難しいかと思ったが、存外ざっくばらんな質だった。

女将は常に品のある微笑みを湛えた、老舗の女将に相応しい麗しき人だった。

若旦那(番頭)と若女将は揃って良家の育ちが面相に滲む奥床しい人柄である。

奉公人には年寄りが多かったが、皆一様に穏やかで親切だ。

床下かどこかに住み着いている一匹の野良猫が現れると、皆仕事の手を休めて餌やりの様子を眺めては、かわいいね、と口を揃えて笑っていた。

おれは、こんなにゆるりと働く人たちがあるか、とちょっと可笑しく思ったりした。

実は、こうして旅館で働くには、もう一つ違った意義がある。

働く側の苦労を知ることで、より良い客になれることだ。

おれは、客をもてなすより、客としてもてなされることの方が格段に多い。

だから、出来る限り良い客で在りたいと思う。

金を払うのが偉いと考える者もいるが、金や客の代わりはいくらでもある。

商売人は、選ぼうと思えば客を選ぶことが出来る。

おれは、その時に選ばれるような客で在りたいと常々考えている。

住み込みの一週間はあっという間だった。

こんな温潤良玉の旅館があるなら、多くの人に知ってもらいたいし、おれももっと早く知りたかった。

出発の日の朝、最後の仕事を終えて給料を受け取り、荷物をまとめていたら、昼食くらい食べて行ったらどうかと言われた。

今日は館主がカレーを作るらしいが、このカレーが実に美味しいとの評判である。

これが本当はとても食べたかった。

食べたかったのだが、旅の者には、そこのところの減り張りというものが欠かせない。

おれは潔く断った。

また遊びに来るからその時に是非とも頂きたい、と言っておいた。

館主におれのスカーフの寄せ書きを頼んだら「帰って来いよ」と書いてくれたのが印象的だった。

皆は相変わらず、仕事に追われて忙しそうだった。

沢の音を聞きながら独りバイクに跨ると、米沢へと伸びる険しい山道を下り、この秘境の温泉旅館を後にした。

途中、旅館の従業員から聞いていた「東北一のラーメン屋」で麺など啜りつつ、次なる目的地、思い出深き山形市へと向かった。

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