多才を目指してはいけない。多芸は無芸、人は何もかもは頑張れない

なんでもできる人間にはなれない。

ゴリマッチョの友人が遊びに来たので話を聞いたら、彼は己の筋肉のために人生を捧げる覚悟でいる。

その他のことは二の次となるが、仕方ないと観念している。

そのおかげで、彼にはとかく「筋肉」という印象が定着している。

何かで秀でるためには、その他のことを投げうつ心構えが必要だ。

ある時、「色んなことが出来る人というイメージがある」と言われたけれども、実際には僕は何も出来ないに等しい。

昔からピアノに憧れていたので、ピアノを練習している。

達筆になりたかったので、筆を取った。

教養を身に付けたくて本を読むし、人を楽しませたくて文章を書く。

料理の練習もする。

何もかもやろうとして、結局何も出来ないでいる。

多芸は無芸だったのである。

いや少なくとも、並みの努力では多芸は無芸になってしまうのだ。

ほとんどの人間は、純粋に無芸である。

一つの芸を身に付けるまでには大変な努力を要するので、大半の人は途中で諦めてしまう。

アメリカの大手自動車メーカー「フォード」を一代で築き上げた、ヘンリー・フォードの言葉が好きだ。

努力が効果を現すまでには時間がかかる。しかし人々は、それまでに飽き、迷い、挫折する。

芸をたった一つ身に付けることが出来れば、それだけで、忍耐力と決断力に優れた努力家であることが証明されるだろう。

しかし、忍耐力と決断力に富む努力家など、そんじょそこらにいるものではない。

たった一つの才を発揮することさえ、非常に難しいのだ。

そこへ来て、ごく一般的な人間が、同時に複数の才能を発揮しようなどと考えるのは愚の骨頂である。

ピアノの練習をする時、右手と左手を同時に練習してもおぼつかない。

最初は必ず右手だけ練習して、そのあと左手を練習して、最後に両手を合わせるものだ。

それで結果的に一つの曲ができる。

人間も同様である。

いきなり多才な人間は完成しない。

野球の達人でありながらサッカーも上手にこなす高校生がいたら、それは、同時に練習したからではない。

彼は小学生の時にサッカーチームで努力し、中学生の時には野球部で毎日練習に明け暮れたに違いない。

それで高校生になってみれば、野球もサッカーも上手だった、という結果になる。

多才は、目指すべきものではない。

多才は、何事にも努力し続けた人だけが行き付く結果なのである。

ハンカチ王子という名で通っている、有名な野球のプレーヤーがいて、彼は高校生時代に偉大な仕事をしたが、その後遊びほうけて堕落した。

その正反対に位置するすこぶる努力家の野球プレーヤーに大谷翔平という人がいる。

彼は今日では「唯一の二刀流」と呼ばれ、投手としても打者としても一流の仕事をするという、プロ野球界でも異例の活躍を見せている。

そんな大谷翔平は、特別な人間と言える。

通常なら投手か打者のどちらか一方に絞って結果を出していくはずの野球界で、二つ同時に結果を出した。

彼には遊ぶ時間が無いどころか、生活必需時間さえ削る必要があっただろう。

本気で多才を目指す場合、通常の人間の二倍、三倍の時間を練習に充てねばならない。

それが出来なければ、まさしく「多芸は無芸」に落ちぶれるだけだ。

冒頭で紹介したゴリマッチョの彼が、こんな話をした。

「家にピアノがあるから、ピアノを練習したい。それから字が上手でないから、将来的には字を習いたい」

彼は既に身体づくりのために、賞讃されるべき努力を続けてきた。

そんな彼がこれからピアノを習得すれば、マッチョ、しかもピアノが弾ける、という多才な人間になる。

習字をやっても同様の結果となるだろう。

まずは一つの芸を身に付けることが出来れば、それは必ず多才への足掛かりとなるし、必要なだけの根性も付く。

最初から多才を目指しては、何もかもが中途半端に終わりかねない。

とりあえず一芸を獲得することが、最優先の目標であると気付かされたのであった。

人はなぜ続けられないのか?続けるために、遊び続けよ。

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